常堅寺(曹洞宗・一関市川崎)の紹介|一関樹木葬かわさき

長松山 常堅寺の歴史

常堅寺は、地域とともに歩んできた歴史ある曹洞宗の寺院です。代々の住職が仏法を受け継ぎ、檀信徒の皆さまのご供養に携わってきました。当山は慶長元年(1596年)の開山以来、四百数十年にわたり法灯を守り続け、現在の住職で十九世となります。

當寺開山 日秀文英 大和尚 寛文六年八月廿二日 示寂

二世 間堂芳林 大和尚 (正徳元年三月十九日 示寂)

三世 言山圓祝 大和尚 享保三年十月廿四日 示寂

四世 格翁圓逸 大和尚 元文二年八月十日 示寂

五世 貞岩元由 大和尚 寶暦二年六月五日 示寂

六世 大鏡全由 大和尚 明和元年四月廿九日 示寂

七世 先瑞由天 大和尚 天明七年三月十日 示寂

八世 周道益参 大和尚 寛政三年二月十三日 示寂

九世 賀慶快充 大和尚 文化二年七月七日 示寂

十世 智岳快勇 大和尚 文政二年九月三日 示寂

十一世 長宗快道 大和尚

十二世 恭淳實快 大和尚 安政六年八月三日 示寂

十三世 大烝龍海 大和尚 明治十九年旧三月十二日 示寂

十四世 得岳隨音 大和尚 昭和二十一年五月三十一日 示寂

十五世 曹山法明 大和尚 昭和四十八年正月二十九日 示寂

十六世 祖學泰明 大和尚 昭和四十五年六月十八日 示寂

十七世 大活英雄 大和尚 平成二十三年二月十四日 示寂

十八世 祖眞文雄 大和尚

近世への移行期伊達につき寺守る

川崎村の中心部から県道282号・東山薄衣線を約2km北上しますと、JR大船渡線陸中門崎駅があります。ここから更に村道を約2km北上したところに当寺があります。

東西に北上山地が迫る盆地内を通る鉄道や県道と並行して砂鉄川が流れていますが、その流域は豊かな穀倉地帯であり、また水害の常習地帯でもあります。その水害対策のため現在堤防工事など大規模な土木工事が行われています。

その盆地の東側山裾にある当寺は、古くは天台宗寺院で閑菊法印が開いたと伝えていますが、記録が失われており詳らかではありません。

当寺が曹洞宗寺院として開山するのは慶長元年(1596)のことで、薄衣地区にある松月山東安寺の三世日秀文英大和尚が開いた寺です。開基は門崎城主の門崎安芸守胤盛、法名固山常堅大居士であると伝えています。

中世の古城門崎城には、前期と後期の門崎氏が城主となっています。

前期門崎氏は、薄衣千葉氏三代清堅の二男胤村を始祖とします。胤村は安養寺を開いた兄清村と共に将軍の近侍となりました。ところが三代胤直が応永三十四年(1427)に亡くなった後、門崎城は松川城主千葉利胤に支配されたと伝えますが明らかではありません。

後期門崎氏は東山町の長坂城主千葉頼胤を祖とし、五男胤重が気仙群浜田城主(陸前高田市)となり浜田氏を名乗りました。浜田氏は十代続きますがその子千葉安芸守胤紀が門崎に移住し、館畑に門崎城を築きました。

門崎二代胤重、三代盛常と続き、四代安芸守胤盛が当寺の開基となりました。胤盛は天正十五年(1587)に亡くなりますので、五代盛経がその供養に建てたものでしょう。六代盛信は後に伊達氏に仕えました。

当寺は門崎の寺屋敷に建てられていましたが、その後寺の沢に移り、更に現在地に移ったと伝えています。

また文政二年(1819)、十三世大函龍海の代に火災に遭い、鐘楼堂を残して焼失、その後再建したのが現在の本堂です。

しかし庫裡の再建は難しく、外山館の西大立目氏の広間を払い下げて頂き、庫裡として利用しました。当寺のご本尊は阿弥陀如来です。

本堂は昭和38年(1963)、十八世の代に屋根替えと向拝の取りつけを行っています。また庫裡は昭和32年(1957)に改築、平成13年には新築しました。元禄時代からの鐘楼堂の新築を現在計画しています。

武芸に長じた門崎一族・戦難免れた美術品梵鐘

その梵鐘は元禄十年(1697)に四世格翁円逸の代に鋳造され、多量の金を含有し響きも素晴らしく工芸美術的価値があることから、戦時中の金属供出の難から守ったとされ、現在文化財に指定され、寺宝として鐘の音を周辺に響かせています。

本堂右側に建っている供養碑は、門崎氏十代運太夫盛時の碑です。

享保七年(1722)に生まれた盛時は、伊藤仁斎の学風を慕い各種の武芸を修め、兵法は武田流を学んでいます。また絵や和歌にも長じた多能の士でした。

墓地は仙台の龍興院にありましたが廃寺となり、藤沢町の保寿寺を経て昭和32年(1957)当寺に移設しています。

なお本堂内には門崎家の書家による刻字や俳句額などがあります。

梵鐘

常堅寺 梵鐘
常堅寺 梵鐘

本梵鐘は頂部から竜頭、笠形、上帯、乳の間、池の間、中帯、草の間、駒の爪からなっている。乳の間、池の間及び草の間は縦帯により四区に区切られており、各乳の間には縦三個四列十二個の乳がある。

四区の地の間のうち二区に銘文が刻まれている。 銘文によると、元禄十年(一六九七年)、時の住職である格翁円逸(かくおうえんいつ)和尚が古鐘を再鋳再興したものであり、制作者は仙台の鋳物師「早井弥三郎長次(はやいやさぶろうちょうじ)」である。

早井家は伊達家から領内の鋳物師頭として認められた家柄であり、「早井弥三郎長次」はその系譜に連なるものである。「早井弥三郎長次」制作の梵鐘は、本梵鐘のほか宮城県で二口確認されているのみであり、貴重な資料のひとつである。

このように本梵鐘は、本村最古の梵鐘であり、また、当地方や仙台藩の鋳金史を知る上で貴重な文化財である。 また、鋳造の際、檀家の人達がお盆山盛りの砂金を混ぜて鋳込んだため音が良いと伝えられているほか、美術品としての価値の高さから戦時中の金属供出を免れたと伝えられている。

文化財はみんなの財産です。大切に守り伝えましょう。

門崎運太夫盛時夫妻の墓碑

兵学家(へいがくか)として広く知られる門崎運太夫盛時(かんざきうんだゆうもりとき)(1721~1779)は、文武に優れ、馬術や剣道は仙台藩中随一と伝わります。歌人としても名が知られています。 宝暦四年(1754)には仙台藩第六代藩主宗村(むねむら)公の奥小姓(おくごしょう)を勤めています。また、林子平(はやししへい)との間で交わした『兵策問(へいさくのもん)』は著名です。安永八年(1779)仙台で亡くなり龍興院(りゅうこういん)に葬られました。

門崎氏の祖は、気仙郡浜田村(現陸前高田市)から移住した千葉氏であり、千葉安房守盛胤(ちばあわのかみもりただ)が門崎に居住し、その玄孫安芸守胤盛(やしゃごあきのかみたねもり)が「門崎」を名乗ったのが始まりと伝わります。葛西氏没落後伊達家臣となりました。中世城館「門崎城」は中世期の千葉系門崎氏の居城で運太夫盛時は、千葉安房守盛胤の十代目の子孫です。

「門崎村史」によると、仙台龍興院にあった墓地は、昭和7年に隣接の保寿寺(ほじゅじ)に改葬されました。31年3月、門崎村史編纂の際、門崎村の貴重な文化財と判断され門崎家の故地である長松山常堅寺境内に夫人の墓と共に再改葬されたものです。

平成24年常堅寺境内の整備に伴い現在地に移転しています。

【運太夫盛時 戒名】 嶺松院泰岳了運居士 【運太夫盛時妻 戒名】 栄庵妙寿大姉 【門崎氏略系図】(門崎村史ほか参照) 門崎城初代千葉安房守盛胤~胤重~盛常~改門崎安芸守胤盛~(盛経) ~盛隆~盛興~盛時~盛常~盛善~運太夫盛時~盛徳~盛時

水子地蔵尊

水子地蔵尊(みずこじぞうそん)は、流産や死産、中絶などで亡くなった赤ちゃんや幼くして亡くなった子供(水子)の霊を慰め、守護するための地蔵菩薩です。

水子地蔵の役割と種類
・子供を抱く地蔵: 子安地蔵とも呼ばれ、安産や子授けの祈願も兼ねて祀られます。
・慈母地蔵尊(合掌型): 合掌し、母親のような深い愛情で子供を慈しみ成仏へと導きます。
・錫杖(しゃくじょう)を持つ地蔵: 賽の河原で苦しむ子供たちを鬼から救うとされています。

水子地蔵尊
水子地蔵尊

ギャラリー

年間行事

  • 1月 修正会(元旦御祈祷)
  • 3月 春彼岸会年回忌合同
  • 4月 大般若法会
  • 8月 盂蘭盆会
  • 9月 彼岸会
  • 12月31日 大晦日除夜の鐘

住職挨拶

常堅寺住職後藤泰彦


皆さま、ようこそ「一関樹木葬かわさき」の公式サイトへお越しいただき、誠にありがとうございます。

震災から年月が経つ中、故郷の高齢者の方々が抱える終末期の問題に目を向ける機会が増えました。

家や家族を失い、不安を抱える方々が多くいらっしゃいます。

そのような中で、私たちは震災を経験したこの地だからこそ、高齢化社会に向けて「花のように生き、安心して最期を迎えられる樹木葬」を皆さまにお届けしたいと願っています。

自然に還るという優しさに包まれた供養の形を通じて、亡くなられた方々への祈りと共に、生きている私たち自身の心の平安をお届けする場所となれるよう努めてまいります。どうぞよろしくお願い申し上げます。

・宮城県石巻市出身
・駒澤大学卒業
・大本山總持寺祖院 大本山永平寺にて修行
・岩手県一関市常堅寺住職
・宮城県石巻市観音寺住職